預言者

 今日の友人の発表は興味深かった。彼は一貫して預言者シャーマニズムにこだわって研究しており、正直のところ、ちょっと理解し難いところがあった。しかし、今日の彼の発表では旧約聖書預言者が概観され、特に前半に取り上げられた用語の問題は極めて聖書学的なものであったので、一緒になって考えることができた。預言者は普通「ナービー」という語が使われるが、それ以外にも「ローエー」と「ホーゼー」という語も使われている。サムエル記上9章9節に、「今日のナービーを昔はローエーと呼んでいた」というような記述があり、ローエーであるサムエルに会いに行く時に「神の人」に会いに行く、と言っている。「ローエー」はサムエルを指して使われることがほとんどだが、他にハナニヤ(代下16章)や祭司ツァドク(サム下15,27)に対しても使われている。イザヤ書30章では、ローエー達に対して「見るな」、ホーゼー達には「真実を預言するな」と言われている。「ローエー」も「ホーゼー」も「見る」という語に関連しているようなので、預言者とは神の声を「聞く」というよりも神が示すものを「見る」人々だったのか。しかし、この二つの語は定着しなかったのか、「ナービー」が圧倒的に使われるようになる(二つが旧約全体で十数回しか使われてないのに対し、「ナービー」は306回)。ところがこの「ナービー」という言葉はどういう起源かよくわからないらしい。アッカド語の「呼ぶ、語る」を意味する語が由来かもしれないのだそうだ。そのような外来語ではない表現として「神の人(イーシュ・ハエロヒーム)」も出てくる。こうした預言者にまつわる語を整理し、特に「ナービー」がいつ頃からどういった実態を反映する形で使われるようになったかを探究していくとかなり面白そうである。