「イエスの復活」ルカ24,36-53の翻訳と註

 授業で担当した箇所の翻訳と註です。特に47節について意見をもらえると嬉しいです。もちろん、他の箇所についても。ここにコメントして下さってもいいし、掲示板なりメールなりを使って下さってもいいので。

顕現と昇天 ルカ24,36-53 (マコ16,14-20、マタ28,16-20、ヨハ20,19-23、使1,6-11参照)

 36 さてこうしたことを彼らが語っていると、まさにその人が彼らの真ん中に立ち、彼らに言った、「あなたたちに平安が」。37 すると彼らは怯え、恐ろしくなって、霊を見ているのだと思っていた。38 そこで彼らに言った、「なぜ混乱してしまっているのか、何によって様々な論議があなたたちの心に起こってくるのか。39 私の両手と私の両足とを見よ、まさしく私自身なのだから。私に触れ、そして見よ、霊は肉や骨を持っていないが、見ての通り私は持っているのだから」。40 こう言って、彼らに両手両足を示した。41 それどころか、彼らが喜びのあまり信じられず、驚いていると、彼らに言った、「何か食べられるものをここに持っているか」と。42 そこで彼らは彼に焼き魚の一切れを渡した。43 受け取ると、彼らの前で食べた。
 44 そして彼らに対して言った、「これらは、まだあなたたちと一緒にいた時にあなたたちに対して語った私の言葉、つまり、モーセの律法と預言者たちと詩編とに私について書かれていることは全て実現するに違いないということである」と。45 それから、聖書を理解するための彼らの知性を開き、46 彼らにこう言った、「このように書かれている、メシアが苦しむこと、死者たちの中から三日目に起き上がること、47 その名をもって罪からの解放への悔い改めを全ての民族へ告げ知らせること、と。(あなたたちは)エルサレムから始まって、48 あなたたちがそれらの証人となれ。49 そして[見よ]、私が私の父の約束したものをあなたたちの上に送る。そこであなたたちは、高きところからの力を身につける時までは、都にとどまっていなさい」。
 50 さて彼らを[外へ]ベタニアへ到るまで連れ出し、その両手を挙げて彼らを祝福した。51 そして、彼らを祝福している時に、彼らから離れ、天へと運び上げられた。
 52 そこで、彼らは彼にひれふして、大きな喜びをもってエルサレムへ引き返した。53 そして、絶えず神殿の中で神を祝していたのである。

36 「まさにその人」。「イエス」を加える写本が多いが、パピルス75やシナイ写本、バチカン写本といった重要な古い写本では代名詞のみ。それがイエスを指すことは文脈から明らか。 
「彼らに言った、『あなたたちに平安が』」。この部分を欠く写本(ベザ写本と古ラテン訳のいわゆる「西方型」)、この後に「私だ、恐れるな」を加える写本(G写本とP写本、ヴルガータ訳など)があるが、写本の重要さからネストレの採用している読みをここでも採用。「平安」はルカが好んで使う言葉(マコ1回、マタ4回、ヨハ6回に対してルカ14回。使にも7回)である。パウロも手紙の冒頭と末尾で挨拶代わりに好んで用いる。他の書簡やヨハネ黙示録にも同様の表現がある。ヘブライ語的な挨拶の表現。
37 「怯える」。新約全体で他にルカ21,9に出てくるだけの珍しい語なので、より一般的な「恐れる」(シナイ写本とフリーア写本)や、「動転する」(パピルス75、ヴァチカン写本ほか)という語に書き換えた写本がある。
「霊」。「幻影」と書き換えた写本がある(ベザ写本)。マタ14,26で湖面を歩くイエスを見て驚いた弟子が「幻影だ!」と叫ぶ場面の影響か。
40 節全体を欠く写本もあるが、西方型とシリア語訳写本のいくつかのみ。ネストレは25版までこの読みを採用。
41 「それどころか」。このように訳す邦訳はないが、手足を見せるだけでは信じられないでいる弟子たちに更に食べ物を要求してみせる様を表すために「eti de」をしっかり訳すのが良い。
形容詞「食べられる」は新約中ここのみ。ヨハ21,5では「何かおかずを持ってないのか」。
「ここに」はルカではここのみ、他、ヨハで2回使われる以外は使で5回。
42 魚一切れだけでは少ないと思ったのか、「蜂の巣からのもの(蜂蜜?)」を加えている写本が多くあるが、新約の他の箇所では用いられていない語である。
43 「残りを彼らに与えた」を加えている写本がいくつかあるが、重要な写本には含まれない。いつもはイエスが弟子に与える側だったのが、この箇所では弟子がイエスに与える側になっているのが気に食わなかったか。
45 「知性」はルカではここのみ。他、黙で2回使われる以外は書簡で21回。
「開く」は新約全体で8箇所のみ。そのうち7箇所がルカ文書。福音書の4箇所はいずれも独自資料(2,23「胎を開く」、24,31「目が開け」、24,32「聖書を説き開く」)。接頭辞diaがない「開く」はよく使われる(新約全体で77回)。
46 「メシア」。口語訳、岩波版は「キリスト」と訳すが、(旧約)聖書に書かれているとされているので、新共同訳などのように「メシア」と訳すべき。もっとも、現行の旧約聖書にこうしたメシアに関する記述に直接対応する箇所はない。「三日目に起き上がらされる」がホセ6,2にあるが、主語は「メシア」ではなく「我々」。なお、「メシアが苦しみを受け、死者の中から復活することになっている」との内容は、ルカ9,22ではイエス自身が弟子たちに予告する場面で、使17,3ではパウロが聖書を引用してユダヤ人と論じ合う場面に出てくる。パウロ自身の証言は一コリ15,3-4を参照。
47 最も難解な箇所。問題は「始まる」という分詞の性と数。
 ネストレ(及びUBS)が採用しているのはアオリスト中動の男性複数主格で、この読みはシナイ写本とヴァチカン写本に支持されているので、確実さは高い。他、エフライム写本の原本ほか少数。アレクサンドリア型に偏っているので、UBSの確かさのランクは{B}。
 西方型は、男性(あるいは中性)複数属格としている。ビザンチン型は、男性単数主格(コリディティ写本ほか)もしくは、中性単数主格(あるいは対格、あるいは男性単数対格。パピルス75、アレクサンドリア写本、エフライム写本の第3修正、フリーア写本、その他多数の小文字写本)。
 中性単数の場合、その主語は直前の「告げ知らせること」になり、「エルサレムから始まって全ての民族へ告げ知らせる」となる。しかし、前置詞で済むところをわざわざ分詞を使うか、というのが難点。
 男性単数の場合、その主語は「メシア」か。
 男性複数の場合、その主語は「あなたたち」になり、この部分は48節に続くイエスの言葉となる。私訳はネストレに従って訳したが、まだ十分に検討できてない。48節の異読と併せて検討する必要がある。
51 「天へと運び上げられた」と 52 「彼にひれふして」を欠く写本があるが、西方型に偏る。
53 末尾に「アーメン」書き足しているものが多いが、重要な写本にはない。なお、余白に10月8日の教えとして、ヨハ8,3-11の「姦通の女」のエピソードが書き加えられているものもある(小文字写本1333)。


 UBSはこれを2つの項に分け、49節までを「使徒たちへの顕現」、残りを「イエスの昇天」と表題をつけている。新共同訳はこれに準拠。
 ネストレは24章全体を1つの項とし、UBSの他に52節でも段落を変えている。私訳はこれに準拠。岩波版も同様だが、項の分け方と表題はUBSに倣う。
 この項をもってルカ福音書が終わるのだが、マルコ福音書の終わり方のような問題はない。段落全体を欠くような写本の異読はなく、最後の一文も文書の終わりとして不自然でない。
 内容的に使徒行伝1章と重なる部分も多いが、それが却って本書と使徒行伝の結びつきの強さを示しているといえる。
 他福音書に並行記事はなし。ヨハ20,19-23が内容的に近いが、直接の依存関係を見るのは語彙的に無理。