礼拝出席

 賀茂教会の礼拝に初出席。前から出てみたいと思いながらなかなか叶わなかった。10時半から始まるかと思っていたら15分からというのにびっくり。幼稚園の講堂で行われるというのにまたびっくり。プログラム中に献金がなくてまたまたびっくり。献金箱は受付の所にあった。礼拝中に半強制的に献金袋が回ってくるよりはるかにこっちの方がいい。11時半には礼拝が終わって、うどんをご馳走になった。少し濃いめだったがおいしかった。うどんを食べたのは久しぶりな気がする。
 野本先生の説教は、「一本の杖」というもの。今日は新島襄の昇天記念日だったらしく(知らなかった!)、早朝に墓前礼拝があったそうだ。お墓までちょっとした山道になっていて、登り口にはボランティアの方が用意して下さったのか、杖が何本か立ててあった。話変わって、かつて同志社で進度によってクラス分けしていたのを廃止しようとした時に、できる方のクラスの連中が授業をボイコットするという事件が起きた。そのような問題が起きてしまったのは校長である自分の責任だ、と言って新島は自分の手を杖で激しく叩いたという。その時の三つに折れた杖は同志社の宝として保存されているらしい(Website Error.)。今日の聖書の箇所はヘブライ書11,13-22。旧約の信仰者たちについて述べている箇所だが、その終わり近くでヤコブについて述べているところで、「ヤコブは死に臨んで、〜杖の先に寄りかかって神を礼拝し」たと書いてある。創世記のヤコブ物語は25章から延々と様々なドラマが描かれている。なのに、ヘブライ書の著者が一言でまとめるのに選んだのがこのことだった。創世記47,31にどう書いてあるかというと、「イスラエルは、寝台の枕もとで感謝を表した」とある。「杖の先に寄りかかって」ではない。しかし、この「寝台の枕もと」と訳された「ローシュ・ハッミッター」の「ミッター」の母音記号を変更すると「杖の先」と読むことができるのである。実際、七十人訳やペシッタはそのように解釈しているのである。旧約において杖は神の力が働かれるものであった。ヤコブの人生はその杖を頼りにしたものであった。私たちは十字架という杖を頼りに歩んでいきましょう、というような内容だった。