Lk13,31-33

31 「ちょうどその時」。「人称代名詞+冠詞+時を表す名詞」はルカ特有の表現。時を表す名詞は「時」*1 の他、「日」*2 や「時期」*3 など*4。LXXには数例見つかる*5。一般的な表現は「指示代名詞+冠詞+時を表す名詞」*6 である。新約、LXXとも一般的な表現の方が多く使われるので、これはセム語的な言い方を好む*7 ルカ的な表現の一つと言えよう。
 「あるファリサイ派の連中」。ルカのファリサイ派に対する評価*8 を明確化しておくことは、この箇所の釈義上極めて重要である。言及頻度だけからするとルカに特徴的な語ではない*9。しかし、他のイエスの敵対者達*10 と比較するとルカの特徴が浮かび上がる。すなわちルカは他の福音書と異なり、ユダヤ教指導層の多様性を明確に意識した上で、イエス殺害に関わる政治的な勢力からファリサイ派をはっきり区別し、宗教的な対立のみに限定する。また、言及箇所とその内容に注目することで次のことがわかる。言及箇所は、エルサレムへの旅の開始前後に対応して二つに分かれる。旅行前の5−7章では、癒し、罪人との共食、安息日の労働などといったイエスの行動に接してファリサイ派に反感が生じていく様子が描かれる*11。旅行中の11−19章では、ファリサイ派に対する批判が展開される*12エルサレム入城後にファリサイ派について全く言及がないのは、イエス殺害にファリサイ派が関与していないことを示すためのものである*13。こうしたことを念頭におけば、この場面では「ある」ファリサイ派の人々だけがイエスに味方した、などと考えるのは当たらない*14。この場面でもやはりファリサイ派は批判の対象なのである。
 「去って行く」。この語は32、33節にも出る。ルカが好む動詞の一つ*15。次いでマタイに多く用いられるが、ルカとの並行箇所は僅か4箇所*16。マルコにはなし*17ヘブライ語聖書で1545回*18 使われる「ハーラーク」の訳語としてLXXで非常に多く使われる語なので、LXXの文体を強く意識しているルカ文書に多く登場するのは頷ける*19。この箇所では、直前の「出て行く」という動詞の命令形に重複するようにこの動詞の命令形が使われていることから、ファリサイ派の発言の焦点は理由部分にあるのではなく前半部にあると考えられる。
 「ヘロデ」。ヘロデ・アンティパスに関するルカの記述は、ヘロデがガリラヤ領主の時代に洗礼者ヨハネの活動があったこと、ヘロディアとの関係について非難されたためヨハネを獄に入れたこと、イエスの弟子の中にヘロデの資産管理者の妻がいたこと、イエスのなす徴を聞き及んでイエスを見てみたいと願ったこと、そして処刑直前にその願いが叶って喜んだがイエスに罪を見いだせずにピラトのもとに送り返したことである*20。この場面の前後では、ヘロデはイエスに会うことを願い、実際に会えたことを喜んでいるのである。殺してしまっては会えなくなってしまう!従ってヘロデにイエス殺害の意図があったとは考えられない。ファリサイ派がヘロデの名を持ち出したのは、かつての師ヨハネを殺したヘロデが次はイエスに殺意を抱いていると脅すことで、イエスがこの地から去っていくのではないかと期待しためと思われる。

32 「狐」。新約中3回*21。どのような意味が込められているか諸説がある*22 が、決定的なものはない。なぜファリサイ派の人々への応答の中でイエスがこのようにヘロデを呼んだのかが問われるべき。イエスがこのような呼び方をするとは、ファリサイ派は想像だにしなかったに違いない。イエスは、ファリサイ派が期待したようにはヘロデのことを脅威と考えなかったのである。
 「癒し」。新約中3回と意外と少ない*23。類語の名詞2語もそれぞれ3回ずつしか使われていない*24。「癒す」という動詞が多く使われる*25。数少ない名詞はルカ文書が大半を占める。動詞もルカ文書に用例が多い。
 「完遂する」。新約中2回*26。ルカが言及する癒しの場面の多くにファリサイ派の人々が居合わせ、イエスと宗教的に対立する。従ってこの場面でイエスが癒しを強調するのは、ヘロデに伝えるためというよりも、ファリサイ派の人々に対抗するためと考えられる。
  「今日も明日も三日目」。類似の表現が33節にも出る。前の「悪霊共を追い出して癒しを完遂する」に掛かるのは「今日」だけ*27 か「今日も明日も」なのかは文法的には決められない。多くの注解者が「今日も明日も」と「三日目」とを切り離す後者を採用するのは、「三日目」を次の「完成に至る」と結びつけて受難と復活の意味に解するからである。しかしそのように解し得るのはルカの読者であって、この言葉を向けられているファリサイ派ではない。ここでは33節の表現と同様に前後二つに切り離さず、一連の行為として理解した。
 「完成に導かれる」。これはいわゆる神的受動形である。「私を完成に導く方がおられる」というニュアンスが込められている*28

33 「実際はむしろ」。これもルカに多い言い方。新約31回中ルカ15回、使4回。ただし、使徒行伝では名詞や節を伴って前置詞的に用いられるのに対し、福音書では全て反意接続詞として用いられる。使徒行伝の用例をルカ的として、福音書の用例を伝承に帰す*29 ことができるかどうかは即断できない。
 「預言者」。ルカはイエス預言者という語を結びつける。マルコ、マタイがイエスを指して「預言者」という語を用いるのはせいぜい1回ずつだが*30、ルカの場合はこの箇所を除いて7回ほどある*31。イエスが自分を預言者と看做していたかどうかというのは、また別の重要な問題である。
 「エルサレム」。ルカにとってエルサレムが重要なのはその使用頻度からもわかる*32。ルカはイエスの誕生から復活までをエルサレムと結びつけて表現する。中でも、9,51から19,45にかけて記されるエルサレムへの旅のちょうど頂点となるこの箇所*33 は、ルカのエルサレム中心主義が神の救いの計画の一環であることを表している*34
 「ありえる」。新約中ここのみ。

*1:「ωρα」2,38、10,21(//マタ11,25は指示代名詞)、12,12(//マコ13,11//マタ9,22は指示代名詞)、13,31、20,19(//マコ12,12//マタ21,46にはなし)、24,33、使16,18、22,13。

*2:「ημερα」23,12、24,13の2例のみ。

*3:「καιροις」13,1の1例のみ。なお、「εν τοις καιροις αυτων」という表現がマタ21,41にある。

*4:「αιων」が使われた例がルカ20,35に一例だけある。

*5:エス8,1、9,2、ダニ3,6、5,5など。エス8,1では、ヘブライ語の女性人称代名詞をギリシャ語の女性人称代名詞で直訳しているのがわかる。

*6:「ωρα」マタ8,13(//ルカ7,10にはなし)、マコ13,11//マタ10,19(//ルカ12,12は上記参照)、マタ18,1(平行箇所にはなし)、マタ26,55(並行箇所にはなし)、使16,33。マタ9,22、15,28、17,18も参照。 「ημερα」はルカ1,25、6,23など、単複ともに多数の用例あり。「ημερα」はルカが好む単語の一つ(共観書中半数以上の83回、使でも94回)。 「καιρος」はマタ11,25(//ルカ10,21は上記参照)、12,1(並行箇所にはなし)、14,1(並行箇所にはなし)、使12,1、1923、マコ10,30//ルカ18,30。 この問題について詳しくは、Jeremias, Εν εκεινη τη ωρα, (εν) αυτη τη ωρα 参照。

*7:田川『書物としての新約聖書』、348-9頁参照。

*8:この問題に関して、加山「ルカのファリサイ人像」に大筋は同意するので参照されたい。簡単に趣旨をまとめると次のようになる。ルカが使徒行伝でファリサイ派に言及するのは、パウロとその師ガマリエルについて以外に一例しかない。そこではファリサイ派出身のキリスト者が異邦人に割礼を要求するという点でパウロらと意見を異にする。福音書においてファリサイ派がイエスと対立するのも宗教的・神学的な問題に関してのみであり、政治的な敵対関係の勢力とは明確に区別されている。ルカの教会にとって、ファリサイ派出身のキリスト者が異邦人と食事を共にすることができるかどうかというのは現実問題だった。ルカは彼らが教会に留まるために、異邦人との共食がイエス神の国の指針と本質的に関わるものであることを示そうとし、同じファリサイ派出身のパウロを身近なモデルとして提示するのである。

*9:マコ12回、マタ29回、ヨハ19回に対してルカ27回。

*10:「祭司長」、「律法学者」、「ヘロデ派」、「律法の教師」、「サドカイ派」。

*11:5,17-26(中風患者の癒し)、5-27-32(徴税人との共食)、5,33-35(断食をしない)、6,1-5(安息日の麦穂摘み)、6,6-11(安息日の癒し)、7,29-30(ヨハネバプテスマ)、7,36-50(罪の女の癒し)。

*12:11,37-54(貪欲と邪悪)、12,1(偽善)、14,1-24(律法の盲従)、15,1-32(罪人の疎外)、16,1-31(欲深)、17,20-21(神の国の無理解)、18,9-14(自己義認と他者の軽蔑)、18,37-40(エルサレム入城時の賛美妨害)。

*13:ルカはマコ12,13の「ファリサイ派のある者たち」を削除している。

*14:Green, p537 など。

*15:新約150回中、51回。使にも37回。

*16:8,9//ルカ7,8、11,4//ルカ7,22、12,45//ルカ11,26、18,12//ルカ15,4。

*17:16章の付加部分に3回(10、12、15節)と9,30の異読にはある。

*18:BDB, p.229「hlk」を参照。

*19:接頭辞がつくものもルカ文書に多い。 επι-が付いたものは、ルカ8,4のみ。 δια-が付いたものはルカ文書が主(ルカ6,1、13,22、18,36、使16,4)で、他はマコ2,23の異読とロマ15,24。 παρα-が付いたものが9,30の他に2,23、11,20、15,29と4回出る。これは他にマタ27,39に出るのみ。 προ-が付いたものは、ルカ1,76と使7,40のみ(どちらも引用文中だが、前者はマラ3,1の引用に付加、後者は出32,1)。 συμ-が付いたものは、ルカ7,11、14,25、24,15の他、マコ10,1。 他の接頭辞としては、εισ-(マタ1回、マコ8回、ルカ8,16、11,33、18,24、19,30、22,10、使3,2、8,3、9,28、28,30)、εκ-(34回)、εμ-(2回)。

*20:順に、3,1、3,19、8,3、9,7-9、23,7-15。ルカは、マルコのヘロデによるヨハネ殺害の記事の大部分を削除してはいるが、ヘロデがヨハネを処刑したことは言及されている(9,9)。

*21:他の2回は「狐には穴があり…」という有名な台詞(ルカ9,58//マタ8,20)に出てくる。

*22:Fitzmyer, p1031 などを参照。

*23:他の2回は使徒行伝4,22、30。

*24:「θεραπεια」がルカ9,11、12,42、黙22,2、「ιαμα」が1コリ12,9、28、30。

*25:「θεραπευω」が新約43回中ルカ14回、使5回、「ιαομαι」が新約26回中ルカ11回使4回。

*26:こことヤコ1,15。

*27:このように考えるのはほぼ本田訳のみ。

*28:Jeremias, Die Sprache des Lukasevangeliums, S. 234 および、エレミアス、20-26頁およびその注を参照。

*29:Jeremias, Die Sprache des Lukasevangeliums, S. 234 がそのように考える。S. 139f も参照。

*30:マコ6,15、マタ21,11。

*31:ルカ7,16、7,39、9,8、24,19、使3,22-23、7,37。

*32:マコ10回、マタ13回、ヨハ12回に対し、ルカ31回、使59回。Jeremias, Die Sprache des Lukasevangeliums, S.91f 参照。

*33:Talbert, p. 111f. のキアスムスの表を参照。なお、このキアスムスへの批判と修正案については Bock, p. 961f. を参照。

*34:三好、187-8頁参照。