エレミヤ30,4-11

 エレミヤの発表がようやく終わった。終わったといっても11節までしか終わらず、来週もう一回ある。今回結局16節までしか準備できなかったので、残り8節もある。ふぅ、大変だ。
 問題になったのは、まず5節。冒頭の「確かにこうヤハウェが言った」をBHSは付加とみなしており、ATDも同意見なのだが、付加だとする理由として4節との重複や6節との繋がりの悪さなどを挙げており、こうしたことが生じるとわかっていてなぜ敢えて後代に付加されるのか疑問だった。先生がおっしゃるには、編集したからスムーズになる、というものではない、わざと付加とわかるようにしてある箇所もあるし、前にあったテキストが変更できないからかもしれない、というようなことだった。付加はまだしも、削除となると、残されたものから何が削除されたかなんて想像の域を超えない。ATDなどは編集史が全盛期の頃に書かれた註解書だからそうしたことが細々書かれているが、最近の註解書はそうした編集の過程はあっさり過ごして、現に今ある状態の文学作品をどう読むか、というような見方をするものが多いらしい。
 「われわれは聞いた」とヤハウェの言葉の中で一人称複数が出てくる件に関しても、BHSやATDなどのように6節の「見る」と合わせて1人称単数に変える必要はないのでは、という意見があった。ヤハウェとエレミヤが一体化したようになって書かれたのかもしれないし、多くの人々も含めてその声を聞いたのかもしれない。
 7節では、冒頭のホーイを文字の並びを入れ替えて「なった」とし、6節末に移動する提案があるが、そうでなくてマソラ本文のままであれば、ホーイはいくつも続けて出てくることが多いので、なんらか文が続いていたのが失われたのかもしれない、とは先生のご意見。韻やリズムを詳しく見てみることで編集の跡がわかるかも、とのこと。
 もう一つ、7節で一番問題になったのが、というより、今回進んだ11節までで一番問題になったのが、メアインをどう訳すか、という問題。マソラの母音のまま読むと「どこから」の意味になる。これは旧約全体で17回使われている。これを母音を少し変えてメエーンとしてやると、前置詞ミン+アインで「まったくない」と訳せる。但し、BDBによれば、ミンをつけて否定の強調になる、というのはあまり論理的に説明できないそうだ。BHSには異読も書かれていない。ヘブライ大学版に辛うじてケニコット写本の2つにこの読みがあることが書かれているだけだ(ケニコット写本というのはICUの図書館に複製版のある「ケニコット・バイブル」のこと?http://www-lib.icu.ac.jp/Tenji/Kennicott.htm そうなら15世紀の写本らしい)。写本の支持がほとんどないのに、今回参照した邦訳文献が皆、何の言及もなしにメエーンの読みを採用しているのはなぜ?他に先生がおっしゃっるには、(メ)エーン+前置詞ケが成り立つかどうか、また、アインにどうしてミンがついているのか、ということも調べてみると良いだろう、とのこと。
 あとは、4節から11節までをどういったまとまりで考えることができるか、ということも話題になった。7節の前半と後半で、それまでヤコブに対して禍いについて言われていたのが突然、解放について語られ始め、11節の終わりからまたいきなり罰について語られる。編集の跡なのかそうでないのか、もう少し検討してみる必要がある。
 言及し忘れたこと。6節につけられたBHSの脚注aがよくわからない。七十人訳では二重の翻訳???