ギリシャ語特訓3回目

 某所でのギリシャ語の訓練の3回目。
 前回急いで終わらせたんで、1章17節の確認から。αυτοςと主語が置かれているが、καιで結ばれた前の文と主語がヨハネのままで交替していないので、ギリシャ語としてはこの代名詞は必要のないものだそうだ。わざわざ書かれているのは主語を強調したいためとも考えられるが、この詩文がもとはセム語だったのがギリシャ語に訳されたということであれば、直訳の結果として代名詞が置かれているとも考えられる。そのことを思わせる痕跡が以下、いくつも出てくる。その一つが、主動詞を置いてすぐ続くενωπιον ουτουで、同じ文中で違う人を指すのに同じ代名詞が使われているということで、これはギリシャ語的ではない、セム語ではよくあることなんだそうだ。更に、主動詞の後、2つの動詞が不定詞の形で登場するのだが、定動詞に直接不定詞を繋ぐというのもギリシャ語的でなく、セム語の特徴がここにも表れているとのこと。これは木曜日に予習している時に一番困った箇所で、最初、不定詞などとは考えもせず、σαιを語尾に持つのは中動相未来2人称単数かとばかり考えていて、なぜ突然2人称単数なんかになるんだろうかとかなり悩んでしまったいたのだった。その後、変化表をちゃんと確かめてみるとアオリスト不定詞だということはわかったのだが、ではなぜ不定詞になるのか、理由でも表してるんだろうか、と考えていたのだった。そのことはちゃんと見透かされていて、英語のto不定詞のように理由を表していると思ったら大間違いで、セム語では不定詞で繋いでいくのはよくあること、ということだった。こうしたセム語的な特徴が多く見られるのは、ルカは資料を大きく変えることをしないからで、そのことはマルコを資料として書いている部分のマルコの扱い方からしてもそうなんだそうだ。一番ギリシャ語らしいギリシャ語でギリシャ語の訓練をしようということで選んだルカだったが、最初にこんなギリシャ語らしくないギリシャ語が登場するのは困ったもんで、これが普通のギリシャ語と思わないように、と釘を刺された。ギリシャ語の勉強には、プラトン、クセノフォン、トゥキディデスホメーロス、悲劇を順に読んでいくといいとのこと。
 18節。Ζαχαριαςをどう訳すか、と突然聞かれ、困ってしまった。旧約ではどうか、マラキ書の前だ、と言われても答えられなかった。答えは「ゼカリヤ書」で、口語訳のこの箇所もゼカリヤと訳している。どうしてか、と聞かれ、苦し紛れに英訳がそうだから?と答えたら、馬鹿にしちゃいけないよ、この人の名前はヘブライ語ではゼカリヤなんだ、と教えてくれた。そうだからゼカリヤと訳すべきか、ルカはこう書いてるんだからということでザカリヤと訳すべきか、という話。ちなみに新共同訳は「ザカリア」。γνωσομαιは何の何形か、と聞かれ、γιγνωσκωの中動相未来1人称単数、と答えたら、そう思うだろうが実はこの動詞は能動相の未来は中動相の形を取るんだそうだ。τουτοという目的語があることからもこれが中動相でないことがわかる。
 19節。και αποκριθεις・・・ειπενというのは今後もたくさん出て来るが、ここの場合はいいとしても、多くの場合で「答える」という意味はほとんどなく、単にヘブライ語の表現を直訳しただけのものらしい。ルカも多いが、特にマタイに多いとのこと。εγω ειμι・・・は神的顕現の宣言に使われる。これに関して、Eduard Nordenという人の"Agnostos Theos"という本を表紙と目次(ひょっとしたらないかもしれない)だけでも見ておくように、とのことだった。うちの大学の図書館にはないようなので、早速購入依頼。παρεστηκωςがπαριστημιの完了分詞であることを確認された上で訳せ、と言われ、助ける者、と答えたら、神様は助けられる必要なんてないんだから、παρα+ιστημιなんだから「傍らに立つ」でいいんで、更に完了分詞って言ってるんだから、ちゃんと完了に訳しなさい、これは今はザカリヤのところにやって来ているけど、自分は神様の前に立っていたことがあるんだぞ、って言っているんだから、と。εθαγγελισασθαι σοι ταυταを訳せ、と言われ、あなたにこのことを伝えるために、と答えたら、単に「伝える」じゃないんだから、と言われ、あなたにこのことを良き知らせとして伝えるために、と言い直すと、そんな風に言うしかないんだろうなあ、とのこと。どうしてこんな困ったことになるかというと、ギリシャ語の普通の感覚からしてルカが「福音」を名詞として使いたくなかったことでταυταが目的語になっているんだからそのように訳さないといけなくなるんだ、と。
 20節。και ιδουはヘブライ語の何の訳か、と聞かれ、ヒンネーと答えると、ちゃんとヴェも言え、と叱られた。εση σιωπωνは前に説明したぞ、と言われてすぐにわからなかったが、廻説的表現と聞いて思い出した(id:lonestar:20041002参照)。ανθ' ωνなど理由を表す表現は色々あるけど、αντιと付いてるくらいなんだからそのニュアンスを押さえておくように、πιστευωの目的語は与格ということはちゃんと覚えておくように、等々。何か質問は?と聞かれ、ης ημερας γενηται ταυταの関係代名詞がどうもしっくりわからない旨を伝えると、英語の関係代名詞と違ってギリシャ語の関係代名詞は先行詞に合わせて形が決まるんで、慣れれば楽なやり方だと教えてくれた。
 21節。またまた廻説的表現登場。古典ギリシャ語ではこんなにたくさん使われないんだそうだ。未完了の2つの意味は何か、と聞かれ、継続は答えたもののもう一つを答えられないでいると、もう一つは反復で、これはちゃんと教えられないことが多い、ということだった。一人の人が繰り返し何度もやることだってあろうが、この場合のように複数であれば複数の人がかわるがわるにやったり、同時でもそれは反復になるんだそうだ。そして、まれに過去の時点からの近接未来を示して「〜しようとする」という意味になることもあるとのこと。これをTEVや岩波版は未完了が出てきたらなんでもかんでも「〜し始める」としてしまっているそうだ。不定詞の前に前置詞を置き、不定詞の格を示すために冠詞をつけるといった不定詞の使い方はルカらしいんだそうだ。
 22節。主語が交替しているのでδεが使われている。その後のκαιは、主語は交替しているけれども語尾変化でそれはわかるので、順接を表すのに使われている。οπτασιανは「顕現」とか「幻」とか答えていると、「顕現」だと何か特別なもののように思えるし「幻」だと実在しないものとわかってしまっているみたいだしでこれは訳しにくいが、要するに「見えたもの」なんだそうだ。και αυτος ην・・・のαυτοςは、主語が交替しておらずκαιで結ばれてるんで本来要らないもので、強調のために置かれている。διανευωνは?と聞かれ、うなずく、と答えると、どうしてわかった?Intermediateには載ってなかっただろう?と言われたので、大きい方で調べました、と答えた。確かに大きい方に載っているだろうが、それはほとんど新約聖書だけにしか出てこない単語で、Liddell-Scottは新約聖書の単語は単にAVの訳語を写しているだけだからほとんどあてにならないとのこと。こういう時にこそバウアーを使うんだそうだ。διεμενενは何かと聞かれ、〜のままでいる、と答えると、じゃあμενωは?と聞かれて答えられず。複合語はちゃんと分解してそれぞれの基本の意味をちゃんと確認しておくように言っただろう、と叱られた。そうこうするうちに先生がぼくの辞書でμενωを調べると、ちゃんと線が引いてある。調べてるじゃないか、ちゃんと見なさい、と言われて見ると、ほとんど同じ意味。διαがついているんだから同じ「〜のままである」と言っても「ずっと通してそのまま」というように強調されているんだ、と。そう考えると、διανευωνも繰り返しうなずくというような強調のためにδιαをつけたのかも、と。
 23節。λειτουργιαςは?と聞かれ、公的な礼拝、とかなんとか答えると、みんなでやるんなら礼拝かもしれないが一人でやってるんだから、ということで、年配の参加者のおっしゃった「おつとめ」というのがぴったりの場面だ、ということだった。
 24節。λεγουσαをアオリスト分詞と答えて怒られた。なんでアオリスト分詞と思ったんだろう?確かに単なる現在分詞の女性単数主格だ。困ったもんだ。口語訳は「〜が、言った」というように訳しているが、「が」が余計で、身を隠している間に以下のようなことを言っていた、ということだそうだ。
 25節。κυριοςに定冠詞をつけている写本があるが、なぜ冠詞なしが本文に採用されたか、と聞かれ、こちらの読みの方が普通じゃないから、と答えてセーフ。ではなぜ冠詞がないか、と追い打ちをかけられたが、ヤハウェの訳ということでなんとかセーフ。七十人訳が冠詞なしでヤハウェの訳に使っているとのこと。3章以下のルカの本体の部分でのκυριοςの特徴として2つのことが言えるんだそうで、一つがこのような冠詞なしの使い方はないということ、もう一つはキリストを指す時にしか用いられない、ということだそうだ。
 ここで時間。もうそろそろスピードアップするだろうと思ってだいぶ先まで予習していたが、なかなか進まないもんだ。次こそはもっと先まで進もう、ということだった。緊張感があるのは当然だが、無駄に硬くならず、楽しい雰囲気で勉強できるようになってきたように思う。しかし、最初にいただいた、語学力、そもそも学力はあせってもどうなるもんでもなし、じゃりを噛むような努力を20年、30年と続けていくものなのだから、ちょっと何年やったからとてその程度で何かわかったような顔をするのはよくない、という言葉を忘れないようにしなければ。