ルカ1,4-17

lonestar2004-10-02

 先月から某所でギリシャ語を見てもらっているのだが、本日が第2回目。1回に1章ずつくらいのペースでいきたいけど、1章は2、3回かかるだろう、と言われていたのだが、前回は序文さえ終わらなかった。ということで、今日は4節から。どう訳したものかよくわかっていない箇所のひとつだったが、περι以下をεπιγνωςの目的語のようにごまかして訳したら、早速叱られた。既存の翻訳の真似をするからそんな訳になるのだ、と。翻訳は見ないようにしていたんだがなあ。την ασφαλειανが対格だからεπιγνωςの目的語になるというのは気付いていた。そうすると、「あなたが知らされた言葉について、確実なことをわかって下さるように」というのは何を言っているのかよくわからないと思って、περιの節を最後までと考えてしまった。関係代名詞があるからそんなこともあるのかなあ、と適当にごまかして。やはりごまかしてもすぐバレる。κατηχηθηςはκατα+ηχοςで、ηχοςはエコー、つまり音。καταで動詞化している。相手の耳元で丁寧に音を響かせる、というようなニュアンスだそうだ。これが後に「カテキズム」というキリスト用語にもなったらしい。で、訳し直すと、「あなたが教えられたことがらについて、確かなことをあなたがお知りになって下さるように」。確かにこうとしか訳せない。そして、言いたいのは、テオフィロさんが既になんらかキリスト教について教えられているかもしれないけれど、不確かな教えかもしれないんで、私ルカが確かなことをこれから書き記しましょう、ということで、ルカは自分より前のキリスト教教育を批判しているのだそうだ。そのようなことは神学者さん達は認めたがらないので、既存の翻訳のような訳をしてしまうのだそうだ。なるほど、なるほど。
 5節。Εγενετοの後にδεがあるのが普通だが、ここでないのは文の書き始めだから。ονοματιが与格なのはギリシャ語ではよくある表現。「名前については」。ιερευςとΖαχαριας(主格)が同格になっている。αυτωが与格なのは、いわゆる所有の与格。εκ των θυγατερωνで、「(アロンの)娘達の中のひとり」という感じ。
 6節。εναντιονで正文批判の練習。異読はενωπιονがあるが、ここで本文がεναντιονを採用しているのはなぜか、と聞かれ、重要な写本がそうだから、と答える。具体的にはシナイ写本、ヴァティカン写本、エフラエム写本の3つが揃っている。一方、ενωπιονにはゴチック文字のMが書かれている。これは何か、と聞かれてはっきり答えられなかった。うろ覚え状態。これはMehrheitstextの頭文字で、「中世の非常に多数の写本でほぼ常に一致する読みを示すもの(つまり、中世の教会の視点と最もよく一致するもの…)をまとめて表示」しており、「まずこれは元来の本文ではないよ、と」考えてよい(以上引用は『書物としての新約聖書』434頁。写本の話になると、この本の第3章を繰り返し読み直す必要がある)。というわけで、ここの読みはεναντιονでほぼ確実。ではなぜενωπιονと書いた写本家がいたのか、と聞かれ、εναντιονはあまり使われない単語だから、と答える。これはクリア。
 7節。αυτοιςと与格で子どもが主語になっていることに関連して、古代語ではこれが普通だったことを教えてもらう。それが近代語ではThey have...のように親を主語にしてhaveを用いるようになる。近代資本主義において所有の理念が強くなったからではないか、というようなフロムの言葉があるそうだ。στειραの本来の意味は、との問いに、不妊の、と答えて叱られる。Intermediateをちゃんと調べてなかった。慌ててその場で調べると、στειραという名詞の方を見てしまってまた叱られる。形容詞なんだからστειροςを見よ、と。そこにはστερροςを見るように指示されているので、そちらを見ると、固い、という意味。いや〜、サボってるところがすぐバレてしまう。προβεβηκοτες…ησανのような分詞+ειμιという表現はよくあるのか、と質問したら、この組み合わせで多いのは現在分詞と完了分詞の場合なのだそうだ。現在分詞との組み合わせは未完了過去で言えば済むようなもんで、完了分詞との組み合わせなら過去完了で言えば済むようなもんだけれども、分詞というのは動詞の形容詞化なのだから、未完了過去よりも現在分詞を使った方が状態を強調した感じがし、過去完了は過去の時点での完了形というよりも大過去を意味している感じがしてしまうので完了分詞を使うんだそうだ。こういうのをperiphrastical(廻説的用法。岩隈・土岐『構文法』では迂説法)というんだそうな。英語では進行形がその例。ギリシャ語ではヘレニズム期から増えたらしい。
 8節。ιερατευεινの二重母音ευの発音をυにアクセントをおいて読んでしまって叱られた。二重母音なんだからευにアクセントをおくのだ、と。冠詞τωがなぜ使われているのかという質問には答えられず。不定詞の格を示したいからだそうだ。納得。途中、あまりに読み方が下手くそなもんで、ホメロスを声に出して読め、と言われた。ギリシャ語は本来美しい言語なんだから、ホメロスギリシャ語のリズムを知りなさい、ということで。
 9節。κυριουに異読θεουがあってそちらの方が自然なようだが、と問われたのには、κυριουはイエス・キリストを指すのに使われるから?と答えた。それ以外の理由として、神の名をなるだけ使わないようにした、ということも教えられた。
 10節。πανはここでは余計で、ルカが好みそうな書き方だそうだ。πληθοςを「群衆」と訳したら、ルカは群衆という言葉を別の単語で非常に意識して用いているので「大勢の」くらいに訳しておけ、と言われた。
 11節。ここのωφθηや9節のελαχεなど、ノートを見ずに基本形を答えよ、と言われたが、一瞬早くノートを見てしまっていた。見てなかったら答えられなかっただろう。規則動詞も怪しいもんだが。δεξιωνは自分から見ての右側なのか祭壇から見ての右側なのかと聞かれ、自分から、と答えたが、先生は祭壇から、という考えだそうだ。祭壇の方が偉いんだから、とかなんとか、ご自分でも屁理屈だというような説明で。
 12節。επεπεσενの基本形も聞かれたが、επιπτωと答えてしまった。落ち着いてゆっくり答えろ、と何度も言わされて、επιπιπτωが正しいのだ、と教えられた。επι+πιπτωなのだから、と。
 13-17節の使いの言葉は、おそらくヨハネ教団に伝わっていた詩の引用だろう、とのことだった。いずれにせよ、もとはヘブライ語(ないしアラム語)の詩だったはずで、あちこちにセム語的表現が残っている。例えばγεννησειは単なる未来だろうけれども、καλεσειςは命令の意味だろう、と。十戒が未来形で書かれているのと同じことだそうだ。14節でχαραとαγαλλιασιςという同義語を並べているのもヘブライ語的な表現で、二つの意味がどう違うのかを考えても仕方がないとのこと。Ζαχαριαの格を答えよ、と言われて、呼格と答えられたのはいいものの、では主格と呼格とが違うのはどのような場合か、と聞かれて答えられず。苦し紛れに、ςで終わるもの、と答えたら、そうでないものもあるんだから正確に言え、と。答えは、第1変化で男性のものと第2変化で男性のものだそうだ。δεησιςはなんという動詞からできたか、という問いもわからず。わかりません、と答えたら、どんな質問にも答えられるように準備してこいと言っただろう、とまた叱られた。これはδεομαιという動詞で、基本の意味は「欠けている」ということで、προσευχομαιの宗教的敬虔さから来る祈りとはちょっと違うのだそうだ。
 15節。σικεραというのはアッカド語かなにかにもあって、長いことあちこちの言語でシケラというように使われていたが、現在残っていないので、様々な文脈から、強い酒だろう、ということしかわからないのだそうだ。あの地方で酒といえば葡萄酒なので、蒸留酒が既に作られていたのならブランデーか、あるいは早く酔うために麻薬が混ぜられていたのか、というような想像も聞かせてもらった。葡萄酒の蒸留酒がブランデーだ、ということを知らなかったので、呆れられた。
 16節。κυριον τον θεονは「主なる神」か「神なる主」か、と聞かれ、「主なる神」だと答えたら、更に理由を聞かれたが、神に冠詞がついているからだ、と答えてなんとかセーフ。しかし、ノートの私訳では「神である主」と書いていた。ここで岩波版の悪口。佐藤研さんは「神なる主」とやっちゃったらしい。確かに。
 17節。εν φρονησειのενはギリシャ語としては理解不能とのこと。ヘブライ語は前置詞が少ないからなんでも“ベ”で済ませるが、それをενと訳しただけなのだろう、と。よくわからないままに時間切れになったので、次回質問しなければ。

文法書と対観表

 今日は新約概論がなくてギリシャ語だけの日だったので、引き続き新約学の基礎の基礎についてレクチャーしてもらう。前回は新約のテキストとギリシャ語の辞書の話で、ネストレ27版とIntermediateを購入した。今回は文法書とシノプシスの話。まずは道具を揃えなければ、ということで。文法書は何を使うか、と聞かれて答えられず。答えはBlass-Debrunnerのもの。

Grammatik Des Neutestamentlichen Griechisch

Grammatik Des Neutestamentlichen Griechisch

Rehkopfが改訂を引き継いでいるが、たいてい呼び名に入れてもらえないらしい。Bl-Dのように略記されるそうだ。土岐健治『新約聖書ギリシア語初歩』にあるようにRehkopfが「改悪」したからか。Funkが英訳している。英語のものでは、前回VGTについて教えてもらった時に聞いたMoulton-Howardのもの。これを「ムールトン」と言ったら何度も聞き返されて、「モールトン」だ、と訂正された。これは、第一巻がProlegomenaで、モールトンが気付いたことが色々と書かれていて面白いところもあるが、Bl-Dのように網羅的に文法事項が解説されているわけではないので、知りたいことが載ってないことが多いらしい。三、四巻となるにつれて論文集のようになってしまって、あまり文法書としての価値はないとのこと。
 次に必要な道具として言われたのが、共観福音書の対観表。何を使っているかと言われて、日本語と並べられているもの、と答えたら、そんな無駄なのはよせ、と言われた。Alandが編集しているギリシャ語だけのものが現在は定番らしい。

Synopsis Quattuor Evangeliorum (Bible Students)

Synopsis Quattuor Evangeliorum (Bible Students)


しかし、これは本来共観福音書だけでいいものにヨハネ福音書までくっつけてしまっているため、非常に見にくいとのこと。ヨハネ福音書の似たような記事はN-Aを並べて見ればいいんであって、その点で見やすかったのがHuck-Lietzmannのものだそうだ。しかし、これもGreevenが編集するようになって、Aland版に対抗してヨハネ福音書を入れたもんだから、良さが失われてしまった。そうすると、アパラトゥスの充実しているAland版を使うということになる。
 ギリシャ語の授業の後、新約学の基礎の基礎の授業の前に、新約聖書概論の話にもなった。きっかけは、ギリシャ語の授業に参加して下さってる方のひとりが、今日は新約概説の授業はないですね、と仰ったことだった。先生が、新約概<説>ではなくて新約概<論>だ、と訂正し、そういえば前田護郎の本は『新約聖書概説』だったな、ということになった。先生が学生の時に、概論と概説はどう違うんですか、と質問したところ、EinleitungとEinfuehrungの違いだ、と言われたそうだ。では、EinleitungとEinfuehrungはどう違うんですか、と聞いたら、もう答えてくれなかったそうだ。
 概論の基本的な本は何か、と聞かれた。『書物としての〜』に3つほど挙げてあったのを思い出し、以前にメールで教えていただいた時に慌てて英訳本からでも読もうとして叱られたことを思い出したが、誰のものだったか思い出せない。苦し紛れにコンツェルマンと答えたら、カ行違いでキュンメルだった。これはFeine-Behm-Kuemmelと継承されてきたもの。もう一冊は、Knopf-Lietzmann-Weinelの流れのもの。前者がEinleitungで後者がEinfuehrungで、後者の方が時代史を含んでいたので、より広範囲に扱っているものをEinfuehrungと呼ぶと勘違いして『新約聖書概説』という書名にしたのではないか、ということだった。概論についてはいずれしっかり教えて下さるとのこと。その時また忘れてたら大変だ。