聖書神学7回目

 しばらくこの話題を取り上げていませんでしたが、授業に出なかったわけではなく、毎回出席しています。ただ、「聖書神学」がどのような歴史的経過をたどったのかというような話は、前に紹介した教科書なんかを見ればよく、ここに書いてもあまり面白くないなあということで書きませんでした。面倒やったし。で、前回から正典理解の典型的な2つの立場を知るために、2つの論文を読み始め、そこから議論も生まれてきたので、簡単にまとめてみました。前回読んだ論文は青野太潮氏の「新約聖書学と正典」(『聖書学方法論』教団出版局,79年所収)です。

  • 青野論文の復習と議論
    • 先生の青野氏批判
      • 「歴史的・批判的研究とは全く分離し得ない…神学的内容批判」(231頁)の重要性を主張しているが、現状における両者の分離状態をどう克服するかが明確にされていない。
      • 「正典中の正典」を「イエスパウロの、あの神なき罪人を義とする神の福音」(232頁)と捉えているが、それは歴史的・批評的研究の上に立つ主張ではなく、単なる好き嫌いではないか。
      • 「「正典中の正典」を抽出する」(同頁)にはそもそも閉じられた正典の存在が前提となるのではないか。ユダヤ教のタルムードのように、正典自体は固定してそれに解釈をくっつけていくのであればいい。
    • 私の先生批判(授業で述べたもののみ)
      • キリスト教の正典自体が、ユダヤ教の正典的な文書を正典としてみとめつつ、それでは足りないと判断して正典の「拡大」を行ったといえるのではないのか。
      • なんでもかんでも取り入れて学んでいく余裕は一人の人間にはないのである程度で閉じる必要があると言うのであれば、どうして「福音書研究」や「ヤコブ書研究」のように更に限定していく現在の聖書学の態度を批判するのか。
  • 聖書の正典的解釈
    • 正典<論>的解釈(渡辺善太・岡村民子)とは若干異なる。
    • 正典的解釈の源流にはLofink、Zengerなどがいる。
    • チャイルズキリスト教神学に聖書を取り戻す」『聖書を取り戻す』教文館,1998参照。
    • 正典化の過程を含めた、ユダヤ教・教会という共同体の伝統の産物、信仰の証言としての聖書。
    • 単なる寄せ集めではない。文書の並べられている順番にも意味がある。
    • 詩篇の順番にしても、キーワードで結びつけられて並べられているように、順番を重視した編集の作業が見られる。
    • 個別に見ることよりもトータルに見ることの重要性がそこにある。
    • タナハと旧約聖書は順番が違う。これは違う書物と言わざるを得ない。