青野太潮「『十字架につけられ給ひしままなるキリスト』」

西南学院大学神学論集』第60巻、第1・2合併号、2003年、1-35頁。

 パウロのキリスト論が彼の「十字架の神学」によって規定されていることを、主要な手紙を通して検討している。
 まず、一コリント書。1章の分派の問題から、同書の中心的な神学思想である知恵と愚かさの逆説的性格について展開される。現在完了形で訳すべき「十字架につけられてしまっているキリスト」という表現に、パウロの十字架理解、復活理解が表れる。パウロにとって「復活」は、ただ「十字架」のもつ愚かさ、躓き、弱さを逆説的に捉えた時にしか現実のものとならなかった。人間にとってあまりに悲惨な十字架を、神はそこにこそ「然り」を言っている、と逆説的に解釈したのがパウロであった。
 二コリント書。4章10節でパウロは、具体的にイエスのあの十字架刑による「殺害」を考えており、その十字架によって信徒の歩みは決定的に規定されていると考える。その歩みを6章8-10節で、肯定的な事態と否定的な事態とが逆説的に同一の事態として成立しているように表現する。ここには、イエスの逆説的な福音が反映している。パウロが地上のイエスの言葉と振舞に関心を持っていたことは間違いない。12章では、「力は弱さにおいて完全になる」との逆説を語るにふさわしい有様を「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」は今もなおとり続けている存在であることが言われる。
 ガラテア書。パウロは木にかけられたキリストを「律法にのろわれた者」と解して、自らの義認論を展開する(3,10以下)。しかし、この「呪い」が逆説的に「祝福」と理解されるのである。この理解によって、パウロは異邦人差別意識を乗り越え、この世の苦難を担い続ける「弱い」生を歩むことができたのである。
 ローマ書。1章3ー4節のキリスト論的要約は、神の子と定められる以前の地上のイエスのことが視野に収められている。「弱さ」である地上のイエスの「十字架」が、「復活」によって大きなキリスト論的転回となるのである。3章24-25節に見られる贖罪論は、パウロ自身の信仰義認論からなされるいくつかの修正が存在する。4章1-8節でその信仰義認論が展開され、信仰義認の現実がすでにアブラハムダビデにおいて与えられていたことが明言されている。贖罪論だけではパウロは理解できない。