Online Bible MacOSX β版

http://d.hatena.ne.jp/lonestar/20050703/p1

2005年7月にβ版登場の記事を書いて、もう1年半以上経ちますが、まだβ版で更新を続けています。4月5日に更新されたヴァージョンは3.9.10y17。yってなんなんでしょう?(笑)
http://www.online-bible.com/maconlinebible.html

β版登場からずっと使ってますが、初期のうちは少しはクラッシュすることがあったものの、最近はほとんどクラッシュしません。大きな変更も見られないし、こつこつバグフィックスをやってくれてるんでしょうが、正式版の登場が待ち遠しいです。正式版が出れば記念にCDを購入しようと思ってるんですが。

Biiible!!!

 Biiibleなるサイトを知りました。まだざっと見ただけですが、かなり使えそうです。英訳はKJVやNABなど16種類。語句検索はもちろんのこと、章単位で2つの訳を並べて比較したり、辞書もあって、英語だけでなくギリシャ語やヘブライ語ラテン語の単語なども調べたりできます。ストロングス・ナンバーも使えます。聖書地図もあります。バイブル・タイムラインなるものもあります。色々ある聖書サイトの中でも使いやすいサイトではないでしょうか。

『新約聖書釈義入門』

新約聖書釈義入門
新約聖書釈義入門原口 尚彰

教文館 2006-04
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本書の「はじめに」にあるように、「新約釈義には職人的な技術の側面があり、(中略)基本的な釈義の手順や着眼点について要領よく解説した手引書が」あればと常々思っていた。id:lonestar:20041125で紹介したG・D・フィーの『新約聖書の釈義』はその期待にかなり応えてくれるものであった。フィーの訳書の出版から8年。同じ教文館から出版された、新世代の新約学者を代表する原口氏による本書を期待をもって開いた。が、その期待はかなり裏切られた。

・・・と、いろいろと裏切られた理由を書いていたんですが、慣れないWindows機で書いていたら、登録する直前で消えてしまったので、とりあえず余力があればまた書きます。たぶん、もう書かんと思うけど。あーあ。


・・・これで終わってしまってはあんまりなんで、もう少し追記。
どのように裏切られたかというと、「職人的な技術」の道具やその扱い方、扱う手順などをこそ知りたかったのに、それに関する記述は10ページ程度しかなく、大半は釈義の具体例が並べられているだけ。それなら註解書と変わらんやん!ってな感じ。私の習得した釈義の具体例を見ることで職人技を盗みなさい、みたいな。なんで、原口氏の釈義例を「要領よく」知りたい場合には便利な本かもしれんけど、「基本的な釈義の手順や着眼点」について要領よく学べるかどうかは疑問。

2回目の説教

 先週の金曜日から土曜日にかけて合宿があり、金曜の晩に2回目の説教をさせていただきました。あれこれ書くと言い訳がましくなりそうなので、2回の説教(の演習)を終えて考えたことなどはまた別の機会に書くとして、さっそくですが、どうぞ。

[ここから]
「人は何者か」

ヘブライ 2:6-13
 どこかで誰かがはっきり証言して言っています。
「人間が何者なので、あなたはこれを思い起こされるのか。 人の子が何者なので、これに目をお留めになるのか。
 あなたはこれを小さくなさった、少しだけ、天使よりも。 あなたは栄光と誉れとをこれに冠(かぶ)せ、
 全てのものをこれの足の下に服従させなさった」と。
 神が「全てのものを人間に服従させ」なさっている間は、一つとして人間に不服従なままではないはずですが、今まだ私たちは「全てのものが人間に服従」させられてしまったのを見ていません。しかし、「少しだけ天使たちよりも小さくされた」イエスが、死の苦難のゆえに「栄光と誉れを冠ら」されたのは私たちも目にしているのであって、それはイエスが神の恵みによって一人一人の代わりに死を味わったとおりであります。多くの子らを栄光へと導く救いの先導者を、苦難を通して完成に至らせることは、全てのものの存在目的であり存在理由でもある方にとってふさわしいことだったからなのです。聖(きよ)める方も聖められる者たちも、全ておひとりから出ているのであって、この理由ゆえに、イエスはこの者たちを兄弟と呼ぶことを恥じとはせず、「あなたの御名を私の兄弟たちに告げ、集会の真ん中であなたを讃め歌います」と言い、さらに、「私がその方に信頼する者となります」、さらに、「ここに、私と私に神がお与えになった子供たちとがいます」と言われるのです。(私訳)

 皆さんは、どのような時に神のことを考えるでしょうか。
 都会の喧噪を離れ、ここリトリートセンターのような自然に囲まれた所に身を置いた時に、思わず創造主に思いを馳せる、という方も少なくないのではないでしょうか。そして、この大自然と比べたら、人間という存在が、自分という存在がいかにちっぽけなものであるか、考えてしまうという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 そのような感慨を、旧約聖書の詩人も次のように歌っています。

 「まことに私は見る、あなたの天、あなたの指のみわざを。 あなたがお据えになった月や星々を。
  人間が何者なので、あなたはこれを思い起されるのか。 人の子が何者なので、これに目をお留めになるのか。」
 (詩篇8編4-5節。私訳)

今日は七夕ですが、あいにくの天気で星空を見ることができません。星空と言えば、私は、高校に入学したての頃に学年全員で行った熊本の阿蘇での体験を忘れることができません。男ばっかりの男クラ、男子クラスだったのでロマンチックな思い出などは全くないのですが(笑)、担任の先生──この方も男の先生でした──にクラス全員が外に連れ出され、懐中電灯を消すように言われてそうした時、そこには都会では決して味わうことのできない真の闇がありました。どんなに目を凝らしても、隣に誰がいるかもわからない。暗闇というのがこんなに何も見えないものなのだということをその時初めて知りました。そしてふと目を上げると、そこには満天の星空が広がっていたのです。見れば見るほど星の数は増えていきます。阿蘇山の上で、邪魔するものはなにもない。頭上全てが星空。手を伸ばせば届きそうなくらい。しかし、決して届くことはない。それは広大な宇宙。この宇宙の中では地球なんて小さな、小さな惑星の一つにすぎない。その地球上に、46億年もの歳月の中で、たまたま現在生きている60億人もの人々。その中の一人にすぎない、自分。・・・普段あまり考えることのない、考えたとしても頭の中だけであって実感を伴わないような宇宙の広大さを見せつけられた時、深い感動をおぼえるとともに、この巨大な宇宙の秩序を保ちながら、同時にちっぽけな存在である私をも生かしておられる全能者に、私は思いを馳せたのであります。
 創世記の創造物語を読みますと、神はご自分の形に、ご自分の姿に人を創造された、と書かれています(1,26)。そして、大地を支配し、すべての生物を治めるように言われた、と書かれています(28)。先ほどの詩人は、このような創造神話を背景にしながら、次のように続けます。

 「あなたはこれを欠けるものとなさった、少しだけ、神よりも。 そして栄光を、また威厳をもこれに冠せられた。
  あなたはこれに治めさせてくださった、あなたのみ手のわざを。 全てを置いてくださった、この足の下に。
  羊も牛もこれを全て、 また野の獣たちも。
  空の鳥も、また海の魚も、 海の道を通るものも。
  我らの主ヤハウェよ、 あなたのみ名のなんと力強いことか、この全地に。」(詩篇8,6-10。私訳)


 もっとも、自然に接することが、いつもこの詩篇のように神への賛美で終わるというわけではありません。どんなに科学が発達し、自然の動きを予測し、それをある程度制御できるようになったとしても、私たちは決して自然災害をなくすことはできません。なくすことができないどころか、年々被害の規模が大きくなっているようにさえ思われます。人間が自然を支配しようとするのに対抗するかのように、自然は人間が思いもしないように変化し、異常気象や自然災害によって人間に大きなしっぺ返しをしています。今もまた台風が近づいているとのことですが、私たちにできるのは、ただ被害が小さなものであるように祈ることだけであります。しかし、どんなに祈っても、自然の猛威によって一瞬にしてそれまでの生活を破壊されてしまう人々が現に大勢いるのです。そうした事態に遭遇すると、私たちはいったい神はどこにいるのか、神は何をやっているのか、そもそも神など本当にいるのか、そう思わざるを得ないのであります。

 旧約聖書に非常に親しんでいたヘブライ書の著者は、さきほどの詩篇の中で「全てのものを人間に治めさせた」と歌われていることに容易に同意できない現実に直面していました。聖書を読む限りでは、神は自分たち人間にこの世で最高の地位を与えてくださった。神は自分たちをその似像に造られた。神の子として産んでくださった。神が自分たちの父となってくださった。・・・聖書にはそう書かれている。だけれども、自分たちはそのような聖書の言葉をどれだけ実感をもって受け止められるだろうか。現実を見れば、とても自分たちが「神の子」であるなどとは思えないような世の中ではないか。神は自分たちを試みに遭わせるばかりで、とても万物を人間に治めさせてくださっているようには思えない。人間は神の子なんかじゃない。人間は人間の子、人の子でしかない。・・・
 自分の置かれている状況を真摯に見つめれば見つめるほど、この著者は聖書の言葉を実感の持てるものとして受け止めることができないでいたのでした。そんな時、彼はイエスという名の人物のことを伝え聞くのです。ある人々はその人物のことを「キリスト」と呼んでいました。また、その人物のことを「神の子」と呼ぶ人々もいました。そう、「神の子」。ヘブライ書の著者は、イエスという人物を知った時にはじめて、「神の子」という言葉に実感を持つことができたのです。
 それは、この著者がそれまで考えていた「神の子」像を根底から覆すような出会いでした。それまで彼が考えていた「神の子」とは、常に栄光のうちにあるような人物のことでした。この世で巨大な権力を握った人物のことでした。人々から賞賛され、認められ、大事にされていた人物でした。しかし、イエスという人は、人々から蔑まれ、裏切られ、最後には殺され、打ち捨てられるような、栄光どころか恥を一身に集めるような生き方をした人物だったのであります。
 しかし、そのイエスは、この世のあらゆる試練にくじけることがなかった。神から離れていかなかった。常に真剣に神と向かい合っていた。この死の苦しみから自分を救うことができるのは、父なる神をおいて他にはいない。そう信じて、人々の苦しみをも共に苦しみ、涙を流しながら神に祈り、願い求めていた(ヘブライ5,7)。
 ヘブライ書の著者は、自分の信じる神は、そのようなイエスの祈りをお聞きにならないはずがない、そのようにして死んでいったイエスを、この世の人々のように捨て置くはずがない、きっとご自分のすぐそばに引き上げてくださっているはずだ、大事な我が子として迎え入れておられるはずだ、そう確信するに至るのです(5,7、8,1、12,2など)。
 そして、同じひとりの神から造られたものである以上、自分たちもまた、神にとって大事な大事な我が子であるということに気付くのです(2,11、12,5以下など)。
 十字架の死に至るまで徹底して神と向き合った人生。神から離れることなく、神の子として、神の共同体の中で生きた人生。そこに、ヘブライ書の著者は、聖書が伝えていた神と人間との本来的な関係を見たのでありました。人間はそのような関係の中で生きることができるものなのだ、との希望を得たのでした。聖書に書かれていたことは決して理想的な神話なのではない。そこに書かれている神の約束は決していい加減なものではない。自分たちもまた、神の子として生きることができるのだ。そのようにヘブライ書の著者はイエスの生と死とを通して確信を得るに至ったのであります。

 私たちは普段、神のことなどあまり考えないかもしれない。考えたとしても、それは苦しい状況に置かれた時に否定的に考えるだけなのかもしれない。しかし、そのような時にこそ、神が共にいてくださるということが私たちの慰めとなるのであり、神の約束の言葉が私たちの希望となるのであります。神が私たちと共にいてくださること、神が私たちに安息を約束しておられることを聖書は私たちに伝えています。私たちと同じ一人の人間でありながら、そのような聖書の言葉を身をもって生きたイエス。神との信頼関係のうちに生き抜き、私たちもまた同様の関係のうちに生きることができるのだということを示してくださったイエスであるからこそ、私たちはヘブライ書の著者とともに、イエスを「主」、「キリスト」と告白できるのです。祈祷いたします。[ここまで]