初めての「説教」

 先週の授業で、初めて「説教」なるものをした。これが「説教」と呼べるものかどうかは皆さんのご判断にお任せします。私自身はこれが「説教」であることに拘りませんので。もちろん、そのつもりで準備はしましたが。内容は、自分が聖書を学ぶ上で大事にしたいと思っていることについてです。直前まで大きく書き換えていたので、実際に話したものを文字起こしするとこの原稿とは異なる点が多々ありますが、まあ、大筋はこの通りに話しました。では、どうぞ。

[ここから]
「どう読んでいるか」

(私訳)
ルカ 10:25 すると、ある律法学者が立ち上がり、イエスを試して言った。「先生よ、私は何をしたら永遠の命を受け継ぐんでしょうね」。26 イエスはその人に向かって言った、「律法には何と書かれているでしょうか。あなたはどう読んでおられるのですか」。27 学者は答えて言った、「『汝こころを尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、考えを尽くして、主なる汝の神を愛すべし。また、おのれの如く汝の隣人を愛せ』と」。28 イエスはその人に言った。「まっすぐにお答えになりましたね。それをなさったらどうですか。そうすれば生きるのではないでしょうか」。29 学者は自分を正当化したくてイエスに言った、「では、私の隣人とは誰でしょうね」。・・・
・・・36 この三人の中で、誰が強盗の手に陥った人の隣人になったと、あなたはお思いですか」。37 学者は言った、「その人に憐れみをかけた人でしょうね」と。イエスは学者に言った、「行って、あなたも同じようになさったらいかがですか」。


「あなたは律法学者のようですね」。
 そのように言われたとしたら、皆さんはどのようにお思いになるでしょうか。嬉しいとお思いになる方はほとんどいらっしゃらないのではないかと思います。福音書において、律法学者はイエスに敵対し、イエスを十字架に追いやった中心人物として描かれているからです。そのような人物と同列に扱われるのはまっぴらごめんだ。教会に通う方の多くが、そのように考えるのではないでしょうか。
 しかし、 律法とは、広くは旧約聖書全体、あるいは宗教的な教え全体をも指す言葉であり、それを専門的に研究し、人々に教えるのが律法学者と呼ばれる人々であることを考えると、同様の役割を果たしているのがキリスト教の世界では神学者であったり牧師であったりするというのは、それほどムチャクチャな主張ではないはずです。幼少から師匠に弟子入りし、モーセ五書を暗唱し、伝統的解釈を身につけるなど徹底的な教育を受けて「補教師」になった後、更に経験を積んで、40歳でようやく按手を受けて一人前の「正教師」になる。そのような律法学者は、信仰熱心で、人々から尊敬されるべき存在です。「補教師」を経て按手を受け、一人前の「正教師」になるというのは、まさに日本基督教団がその牧師制度に採用しているやり方のようですので、補教師試験を目指しておられる皆さんは、間違いなく「律法学者予備軍」なのです。(笑)
 しかし、イエス自身もまた、そのような「律法学者予備軍」だった、と言えば、皆さんも少しは安心できるのではないでしょうか。ルカ福音書によれば、イエスは幼少の頃から会堂に出入りし、聖書に精通し、人々から先生、ラビ、と呼ばれていたということであります。イエスが律法学者としての訓練を受けていた可能性は、決して少なくはないのです。ルカ福音書には、結局は喧嘩別れしてしまうのですが、イエスが律法学者と食事を共にしていたとの記事まであるのです。むしろ、同じように律法を専門的に勉強した者同士であったからこそ、聖書の読み方をめぐってしばしば他の律法学者と対立していたと考える方が自然なのかもしれません。

 さきほどお読みした箇所も、そのような一場面と捉えることができるだろうと思います。ある律法学者が立ち上がって、「私は何をしたら永遠の命を受け継ぐだろうか」とイエスに問うのであります。
 ルカ福音書18章を見ますと、これと全く同じ質問をある金持ちの議員がイエスに尋ねています。この議員は、全財産を貧しい人に施すように言われ、失望して立ち去っていくのですが、その後でイエスが「金持ちが神の国に入るよりもラクダが針の穴を通る方がやさしい」と言うと、人々が「それでは、誰が救われるのだろうか」と言ったと書かれています。つまり、「永遠の命を受け継ぐ」ということが「神の国に入る」、あるいは「救われる」と言い換えられているのです。
 「救われる」。「救いを得る」。長い抑圧を余儀なくされていたユダヤ人にとって、この「救い」ということが、最も重要な問題でありました。「救い」をもたらす者、すなわち「救世主」、メシアをこそ、ユダヤ人は待ち望んでいたのです。
 この律法学者は、どうしたら救われるのか、どうしたら「永遠の命」を得られるのかというユダヤ人にとっての大問題を問うことで、イエスがラビとしてどれほどの人物なのか試してみたかったのでしょう。
 「律法には何と書かれているでしょうか。あなたはどう読んでおられるのですか」。聖書に答えを求めるこのようなイエスの返答は、ラビとしてまずは合格です。そして、ラビとして答えるべき聖句は決まっています。「汝こころを尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、考えを尽くして、主なる汝の神を愛すべし」、と。これは、申命記6章の、「シェマー・イスラエール」「聞け、イスラエルよ」との呼びかけで始まることから「シェマー」と呼ばれる、ユダヤ人が朝夕繰り返す祈りの言葉、信仰告白の言葉です。続く「おのれの如く汝の隣人を愛せ」というのも、ユダヤ教の世界では、最も重要な戒めと誰もが考えていたものでした。
 この律法学者は、聖書を勉強した者であれば誰もが答えるべき、いわば「正解」を答えているわけです。自分達ユダヤ人がが日々大切にしている聖句、大切にすべき聖句はこれなのだ、ここにこそ聖書の真髄があるのだ、と。聖書にはそのように書かれてあり、伝統的にこれこそが重要な戒めとされてきたのだ。どう読むかと言われるのであれば、その伝統を正しく学び、伝えるのが正しい読み方なのであって、私もそのように読むのだ。どうだ、異存はないだろう、と。
 事実、それに対するイエスの応えは、「正しい答えだ」というものです。もっとも、これは必ずしも全面的に賛意を示した言葉ではなく、直訳すれば「まっすぐに答えましたね」「ストレートに答えましたね」という言い方です。ひねった答え方をするのではなく、正統的な答えをそのまま答えたな、ということです。
 そのような正統的な答えは、少し勉強すれば誰でも答えられるものです。教会でそのように教えられているから、牧師がそう言っているから、先生がそう言っているから、みんながそう言っているから、だからそれが大事なのだろう、と。自分がその言葉に確信を持っていなくても、その言葉を十分に納得していないにしても、伝統の権威が答えの正しさを保証してくれるのです。しかし、そのような答え方の中に、どれほど自分の実感がこめられているのでしょうか。
 続くイエスの言葉は、そのような表面的な答えを鋭く衝いたものでした。「それをなさったらどうですか」と。「そうすれば生きるのではないでしょうか」と。あなたがそれを正しいと思っているのなら、わざわざそれを私に言って聞かせなくても、ご自分でなさったらいいじゃないですか。人に言ってばかりじゃなくて、ご自分でなさってみたらどうですか。・・・
 律法学者からしてみれば、これでは議論になりません。ただ自分の考えを表明させられただけです。しかも、口先だけで自分ではそれを実践していないかのような言われ方までしてしまいました。このままでは気持ちが治まりません。偉そうなことを言うが、お前はどうなんだ。お前はこの戒めを守れているのか。そもそも隣人というのが誰のことかわかっているのか。・・・
 その言葉を承けて、イエスはあの有名な良きサマリア人の話を始めるのです。強盗に襲われて死にかけている人を、宗教的指導者たちが見殺しにしたのに対して、日頃ユダヤ人と仲の良くないサマリア人の男がその人を助け、手厚く世話をした、という話でありますが、この中で誰が襲われた人の隣人になったと思うか、と聞かれたら、律法学者としても「その人に憐れみをかけた人」と答えざるを得ません。そこでイエスは言います。「行って、あなたも同じようになさったらいかがですか」、と。
 イエスは、あくまで身近な出来事から考えました。この話は、当時ちょっとした噂になっていた事件だったのかもしれませんし、あるいはひょっとしたら、イエス自身が強盗に襲われてこのような体験をしたのかもしれません。つまりは、自分の実感の伴うこととして、「隣人」ということを考えたのです。だからこそ、律法学者も「その人に憐れみをかけた人」と答えざるを得なかったのです。
 律法学者にとっては、聖書にどう書かれているか、ということが重要でした。どのように生きるべきかということも、誰が隣人であるかということも、全て聖書に書かれていることが絶対でした。それに対しイエスは、聖書に書かれてあることは重要だとしても、それ以上にそれをどう読むか、ということを重視したのです。そして、具体的な状況の中で聖書を読み、それを自分の言葉として語っていったのです。先に隣人が誰かということが決まっていてそれを愛するのではない。誰もが隣人となる可能性があるのであって、その中でその人のことを本当に大事にする関係が生まれてはじめて、真に「隣人」と言えるのではないか。
 ここに、律法学者とイエスの違いがあります。そのことを福音書は、次のように伝えています。「イエスは律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えていた」(マルコ1,22並行)と。

 イエスは、まさにこの律法学者が引用した聖句にあるように、「こころを尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、考えを尽くして」、つまり、自分の置かれた具体的な状況の中で自分の知性と感性を最大限に発揮して神の言葉を聞くことによって、多くの律法学者が陥っていた、固定された文字に囚われる読み方から脱却することができたのでした。
 確かに、聖書には私たちが学ぶべき知恵が満ちあふれています。しかし、そのままでは死んだ文字であり、パウロが言うように、人を殺すことにもなりかねません。だからこそ、私たちは聖書を学ぶと同時に、私たちの現実に即して語っていく、語り直していく必要があるのです。
 その際、私たちは、しばしばそれが聖書であるということだけで権威あるものと見なし、十分に実感を伴わないままに読み、また語ってしまうことがあるのではないでしょうか。聖書の権威、教会の権威、あるいはイエス・キリストという権威を楯に言葉を押し付けるのであれば、それはイエスが批判してやまなかった律法学者的な読みになってしまうのではないでしょうか。そうではなく、神との関係、現実との関係の中で聖書の言葉に実感を取り戻し、自らの責任で、自らの言葉として語っていくことが、イエスが私たちに示していることなのではないでしょうか。祈祷いたします。[ここまで]

 ・・・付け加えるとすれば、最後の「〜の権威」と並べたところに、「学問の権威」も入れておくべきでした。あと、訳も、最初が「愛すべし」なんだから、隣人の方も「愛すべし」とすべきでしたね。それ以外にも色々あるでしょうが、初回はまずはこんなもんで。次、また今週待っています。準備が間に合うことやら。。。

出た!MacBook!

http://www.apple.com/jp/macbook/macbook.html
 134,800円から、学割価格なら125,364円から入手できるポータブルIntel Macが登場!13インチで色は白と黒。大きさや色を理由に購入に踏み切る人も少なくないのでは。ちゃんとiSightやFront Rowもついています。スロットローディングドライブが右側になったんで、接続端子が全部左側にまとめられているため、USBを右側で使いたい人にはちょっと不便かな。キーボードは本体と高さが同じロープロファイル設計だそうな。うちやすさを確かめに行きたいな。これでIntel Macの環境改善が一気に進むことを願っています。

追伸:よく訪問するshio先生のブログに新しいキーボードの写真と情報がありました。ラッチがないというのもいいですね。Proのラッチは押しにくくて開けにくい。
666:060516 MacBook発売!!: shiology

メールサーバの障害

私はメインのメアドが変わった時に変更の通知を出すのが面倒なんで無料の転送メールサービスを利用しているのですが(http://csc.jp/)、昨日の午前4時頃サーバで障害があったようで、復旧するまでの間に送られたメールの一部が届いていないようです。いただいたメールには大抵はお返事するようにしているので、もし昨日から今日にかけてメールしたのに何の返事もないぞ、という方は、ぜひメールを再送してください。ご面倒をおかけしてすみません。
無料だからあまり文句は言えないものの、こんな場合はとても困ってしまいますね。送信者にエラー通知が行けばいいんでしょうが、今回はどうもそれもなかったようなので、送った側はちゃんと送れていると思ったことでしょう。もっとも、使い始めてもう数年が経ちますが、このような問題が発生して迷惑を被ったのは今回が初めてです。今回限りにしてほしいところですが。
追記:この事実を私はCSCのHPで知ったのですが、こうしたことは利用者にちゃんとメールで連絡すべきだと思う。ぶつぶつ。。。

CalenderMemoヴァージョンアップ

久しぶりのヴァージョンアップです。10.4以降対応になりました。まだベータ版だそうです。http://mcalc.zapto.org/
非常に様々な機能を持ったソフトですが、ぼくはメモ管理ソフトとして使っています。自分が作成したメモファイルを、カレンダーとカテゴリーとで管理できるのは便利です。CM上でそのままメモを作成することもできますが、細かな修飾をしたい場合は、コマンド+Oかコマンド+Pで外部エディタを開いて作業しています。CMが作成するメモはrtfファイルなので、デフォルトではテキストエディットが起動しますが、ぼくはテキストエディットではなくiText Express(http://homepage1.nifty.com/lightway/)が起動するように設定しています。テキストエディットが高機能になったようなソフトで、同じ作者のシェアウェアであるLightWayTestと互換性があるので、更に凝った書類を作成したい場合はLightWayTestに持っていく、というわけです。UB化してないのが残念なところ。テキストエディットは一瞬で起動しますが、iText Expressはやはり起動に少し時間がかかります。CMもUB化してくれたらいいんだけど。。。

駿台竹岡テレビ出演!

http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/060314/index.html
予備校時代を支えてくださった先生のお一人。今日放映されたらしいが、研究室にいて見逃した。明日の深夜に再放送があるようなんで、録画しておこう。

プロフェッショナルとは...
センター試験がカレーとしたら、模試はウ○コや!』
                     竹岡広信